『ジーザス・サン』の瘠せたアメリカ

短篇集 Jesus' Son に関して言えば、これはまさに完璧な作品集だ。

とまで村上春樹に言わしめた、デニス・ジョンソンの短篇集が先日刊行された。訳者は柴田元幸白水社の新しい叢書で、装幀も鮮やかなオレンジに落書き風の題字と格好いい。

題名が『ジーザス・サン』というのが、いまいち日本人に対してはイメージを喚起しにくいようで、損かもしれない。扉を開くと、ルー・リードの歌詞「ヘロイン」からの引用句がある。

めいっぱい薬やって、イエスの息子みたいな気分のとき……

実際の小説はまさしくこんな雰囲気である。麻薬の悪酔いと、ごくまれにやって来る高揚感。錯覚と思われるほど微かな宗教感覚。

ジーザス・サン (エクス・リブリス)

ジーザス・サン (エクス・リブリス)

最初の短篇はわずか十頁に過ぎない。ドラッグで頭がふらふらになった男が、ヒッチハイクである家族の車に乗せてもらうのだが、その車はやがて衝突事故を起こし、誰が死んで誰が生きているのかも分からない、そんな話である。

俺は寝袋をケープみたいに体に巻きつけた。ざあざあ降りの雨がアスファルトを引っかき、轍でゴボゴボ鳴った。いろんな思いがみじめに飛び交った。旅回りのセールスマンにもらった薬のせいで、血管の内側がこそげ取られたみたいな感じだった。あごが痛んだ。俺には雨粒一滴一滴の名前がわかった。

男はドラッグのせいで、起こることが何もかも分かるような全能感の中にいる。乗った車がやがて事故を起こすことも分かっているが、それで死のうがどうでもいいと思っている。そして実際、まるで男が正しく予見していたかのように、乗った車は橋の上で別の車と激突する。

俺の体が前後にボコボコ跳ねた。人間の血だとすぐわかった液体が車内に飛び散り、俺の頭に降ってきた。それが済むと俺はまた後部席に戻っていた。起き上がってあたりを見回した。ヘッドライトは消えていた。ラジエーターがしゅうしゅう鳴っていて、それ以外は何も聞こえなかった。どうやら意識があるのは俺だけらしかった。

ドラッグの妄想が、現実と入れ替わる。男はほとんど関わりのない、ずぶ濡れの自分を拾ってくれた家族が、事故の惨事の中にあるのを目の当たりにする。作者はドラッグに酔った語り手によって現実と非現実の境を無化しているのだが、そこに現れるのは異様に醒めた悪夢といった光景である。

訳者の柴田元幸は解説で、デニス・ジョンソンレイモンド・カーヴァーと比較している。

初めて読んだときに僕がまず感じたのも、これはカーヴァーをさらにとんがらせた感じだな、という思いだった。

カーヴァーを知っている人なら、この言葉は驚きだろうと思う。カーヴァーの短篇こそ、無駄を排した鋭い文章が持ち味なわけである。しかし読んでみると、この解説はまさにその通りという感じがする。

不況、空洞化した郊外、失業して先の希望も持っていない若者。この小説で描かれる九十年代のアメリカ社会は、日本の現在の状況と通じる感がある。そしてある点ではずっと索漠として深刻である。彼らはドラッグにふけり、わずかな金のために空き家の銅線を盗んだりする。

この時期俺が最初につきあったのは、「酒なしパーティ」で会った女だ。これは俺みたいな治りかけのアル中とか薬中毒のための社交の場で、女自身はそういう問題を抱えていなかったが、女の亭主は抱えていて、もうずっと前にどこかに姿を消してしまっていた。

カーヴァーもアルコール療養所を舞台に短篇を書いたが、デニス・ジョンソンのこの作品ではアル中は主題にすらならない。アル中やドラッグといった病的状況は、与えられたものとして物語の始めからあり、最後に至ってもはっきり解決が与えられることがない。

いまデニス・ジョンソンと比べると、カーヴァーが健康に見えるほどである。デニス・ジョンソンの小説には、あの豊かで明るいアメリカはどこにも見当たらない。瘠せて骨と皮ばかりのアメリカだが、それがまた非常にリアルでもある。