『やし酒飲み』 知恵の輪的な世界の解体

一箱古本市の店番のあいだに読もうと思い、三鷹の書店で買った。著者のチュツオーラはナイジェリア人で、アフリカの小説といえばまず名前が挙がる定番の作品である。ふつうの書店で買える唯一のアフリカ文学ではないだろうか。

やし酒飲み (晶文社クラシックス)

やし酒飲み (晶文社クラシックス)

読み始め、旅に出たやし酒飲みが、森の中の魑魅魍魎にえんえんと苦しみ続けるあたりで、この受難の感じはカフカみたいだなと思った。男はジュジュと呼ぶ呪いを使うことができ、それを駆使して悪霊から逃れるのだが、すぐまた次の何かが降りかかってくる。あまりにそれが続くので、主人公は大変そうなのだが、傍目で見ているこちらはおかしみさえ感じてくる点も似ている。

もっとも小説の主題は、陰鬱なカフカと比べるとずっと明るい。一種の冒険譚なのだが、その発端となる動機も、やし酒飲みの男が、自分の欲求を満たしてくれるやし酒造りの男を亡くしてしまったので、森の奥の死者の国に彼の霊を探しに行くという、ただそれだけで、深刻な大義や使命とは無縁な遍歴である。主人公の性格も、べつに冒険向きという感じでもない。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。
 父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで夜となく昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた。(冒頭)

こんな男が、死者の国めざして深い森の中へわけ入っていくと、ひっきりなしに得体の知れない魔物が襲いかかってくる。男はやし酒を飲むことしか関心がないので、引き返すという選択肢はまったく頭にないのである。そこでひたすら奥へ進み、遭遇する魔物に苦しみ続ける。

この魔物というのがまた、現地ヨルバ族の伝承によったものらしいのだが、奇想天外といった変なものばかり現れて面白い。転がって移動する頭蓋骨の集団とか、妙に非力な死神とか、人を呑み込んでしまう白い樹とか、そうしたものが次々と出てくる。

この町はとても大きな町で、未知の生物で充ち溢れ、彼らは大人も子供も、人間に対してはきわめて残虐な敵意をむきだしにするのだが、それでもあきたりず、さらに残虐さを加重していく方法を探しているという、あきれ果てた人非人で、わたしたちが町へ入った時もたちまち六人で、わたしたちをがんじがらめに取り押さえ、のこった者で打ち、子供たちまで石を、雨あられと降らしてきた。
 この未知の生物たちは、何かにつけて、人間の逆張りを行くのだった。たとえば、木に登る時には、まずハシゴに登っておいて、そのあとから、ハシゴを木にもったせかけたし、また、町の近くに平坦地があるのに、家はすべて、傾斜の急な丘陵の中腹に建てたし、そのために居住者もおっこちそうなぐらいに、家は傾斜し、事実、子供たちは、家からいつもころがり落ちていたが、親たちは一向におかまいなしといった調子だった。(p.62)

チュツオーラはアフリカのマジック・リアリズムなどと言われたりするようである。魔術的なものが現実感を持つとは、いっけん矛盾のようであるが、この小説においては、森の魔物やそれに対する呪術が旺盛に繰り返されるので、読者はそれに現実の方を浸食されていくような感じを受ける。

さらに言えば、「人間の逆張りを行く」生物たちの町に主人公が足を踏み入れたとき、それまであった人間の現実はいったん解体されてしまうのである。やし酒飲みの旅の中で、こうした現実の解体は幾度となく繰り返される。

現実の更新ということは、すべての小説が行ってわけであるが、チュツオーラの手つきは乱暴すれすれの大胆さで、当たり前の概念の枠組みをあっというまに組み替えてしまう。まるで知恵の輪でもほどくように、初めの世界が解体され、次の世界が現れる。そのこだわりの無さがちょっと類を見ない感じだった。