村上春樹『1Q84』と小説のモーメントなるもの

村上春樹の『1Q84』を読みました。読みやすいが複雑で、力強い作品だったという印象です。文章はごく平明なんですが、小説の構造が非常に入り組んでいて、二人の主人公が交替で登場するというのはこの作者の長篇の以前からの特徴ですが、その二つの導線が微妙に近接したり交差したりする関係だけではなく、リアリズムとシンボル世界の乗り入れ、ねじれと時間の反復、そうしたものが渾然となって、勢いあるひとつの物語をなしているという感じです。

具体的な題材を見ても、家族、新興宗教、左翼運動といったこれまでの作品に見られなかったようなテーマが、同時にひとつの小説の中で展開されている。前作『海辺のカフカ』と比べても、小説全体の懐というか、材料の雑多な幅は、格段に広くなった感があります。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

4月に出た『モンキービジネスvol.5』で、村上春樹古川日出男を聞き手に非常に長いインタビューを受けています。ほとんど全作家生活について語っている貴重なインタビューですが、そこで次のように語っています。

ぼくにとっての総合小説というのは、たとえば、ティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ』がそういうものですね。あの小説のばらけ方と、ばらけることによって出てくる広がり。それからテーマがやたらと大きいことね。総合小説ってのは、細部の出来よりは、全体のモーメントがものを言います。

総合小説というのは、近年村上春樹が、一種理想的な長篇小説の説明として何度も口にしている概念ですが、この発言が気になって、僕は『1Q84』を読んでいるあいだも「全体のモーメント」とは何なのかということを考えていました。モーメントとは、文学論ではちょっと耳にしない言葉ですが、もとは力学などの用語です。正確なところ、村上春樹がどんな意味をこの言葉に込めているのかは分かりませんが、ぶんぶん回る力とか、あるいは別の力との拮抗とか、そんなニュアンスかなと思います。

1Q84』でも、Book2のほぼ最大の山場といえる重要なシーンで、「さきがけ」のリーダーがこの言葉を使っています。

リトル・ピープルがその強い力を発揮し始めたとき、反リトル・ピープル的な力も自動的にそこに生じることになった。そしてその対抗モーメントが、君をこの1Q84年に引き込むことになったのだろう。

長篇小説におけるモーメントという概念は、おそらく村上春樹オリジナルの方法論なのでしょうが、文学の議論として非常に興味深いと思います。この小説は、リアリズムの側面も非リアリズムの側面もありますが、両方の技法はけっきょくモーメントという概念に統合されてるように感じられます。同じモンキービジネスのインタビューで、村上春樹は、東アジアの読者は小説の読み方が面白いと述べていますが、これも印象的です。

アジア文化圏では傾向として「イズム」がないんですよ。ポストモダニズムマジックリアリズムといった理論的な受容ではなく、ただ物語として受け止めるんですよ。ぼくの小説を、物語として面白いか、カッコいいじゃないかという感じでぐいぐい読んでいく。今読んでいるこの小説がリアリズムか非リアリズムかなんてことはたいした問題ではない。そういう文化的な土壌があるんでしょうね。

文学フリマとブロガー同人誌

文学フリマに行ってきました。十分前に着いたら、入口に長蛇の列ができていてちょっと驚く。でも会場もずいぶん広くなりました。天上が高い。

前回は東浩紀ゼロアカが話題でしたが、今回はブロガーによる同人誌がいくつも出ていて面白かったです。フィードで購読しているブログの方が文学フリマで本を売りますといったら、それは買いたくなってしまう。けっきょくネット関係ばかり4冊買いました。

きのう今日でひと通り読みましたがどれも面白かったです。「UMA-SHIKA」と「下北沢の獣たち」はすべて創作でした。文学フリマの創作は純文学系とライトノベル系に二分されている感じですが、そのどちらともちょっと違った感じ。当たり前ですが著名なブロガーさんはやはり文章も面白く、読者を掴みにくる意思みたいなのをはっきり感じます。

せっかくなのでそれぞれ感想を書きます。

「下北沢の獣たち」

元アイドルがスーパーでバイトをする短篇がよかったです。アイドルが清純派なのかエロ系なのか、語りの言うことも錯綜していて最後まで分からないのが独特の後味でした。

UMA-SHIKA」

ヨグ太郎さんの「あっちゃんの東京暴動」、書き出しから何ともいえずよかったです。「正月にひとりでアニメ映画を観ているからといって、おれを寂しい奴だと思わないでほしい。」それからフミコフミオさんの三分に一度世界を滅ぼしている百合っぽい女子高生とか。

Twitter本」

痛ンブラーの話とか黒歴史の話とかよかったです。内容ばらばらなのもTwitterらしい感じでした。

ゆと部報」

「世界がもし100杯の二郎だったら」笑えました。内容も多彩で、表紙もかっこいいし、ひょっとしたらあの会場でもっともバランスよいミニコミ誌だったんじゃなかろうか。おそるべしゆとり世代

ということで、感想でした。ブロガー系のサークルは、今後も文学フリマに増えてくるかもしれないですね。

『やし酒飲み』 知恵の輪的な世界の解体

一箱古本市の店番のあいだに読もうと思い、三鷹の書店で買った。著者のチュツオーラはナイジェリア人で、アフリカの小説といえばまず名前が挙がる定番の作品である。ふつうの書店で買える唯一のアフリカ文学ではないだろうか。

やし酒飲み (晶文社クラシックス)

やし酒飲み (晶文社クラシックス)

読み始め、旅に出たやし酒飲みが、森の中の魑魅魍魎にえんえんと苦しみ続けるあたりで、この受難の感じはカフカみたいだなと思った。男はジュジュと呼ぶ呪いを使うことができ、それを駆使して悪霊から逃れるのだが、すぐまた次の何かが降りかかってくる。あまりにそれが続くので、主人公は大変そうなのだが、傍目で見ているこちらはおかしみさえ感じてくる点も似ている。

もっとも小説の主題は、陰鬱なカフカと比べるとずっと明るい。一種の冒険譚なのだが、その発端となる動機も、やし酒飲みの男が、自分の欲求を満たしてくれるやし酒造りの男を亡くしてしまったので、森の奥の死者の国に彼の霊を探しに行くという、ただそれだけで、深刻な大義や使命とは無縁な遍歴である。主人公の性格も、べつに冒険向きという感じでもない。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。
 父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで夜となく昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた。(冒頭)

こんな男が、死者の国めざして深い森の中へわけ入っていくと、ひっきりなしに得体の知れない魔物が襲いかかってくる。男はやし酒を飲むことしか関心がないので、引き返すという選択肢はまったく頭にないのである。そこでひたすら奥へ進み、遭遇する魔物に苦しみ続ける。

この魔物というのがまた、現地ヨルバ族の伝承によったものらしいのだが、奇想天外といった変なものばかり現れて面白い。転がって移動する頭蓋骨の集団とか、妙に非力な死神とか、人を呑み込んでしまう白い樹とか、そうしたものが次々と出てくる。

この町はとても大きな町で、未知の生物で充ち溢れ、彼らは大人も子供も、人間に対してはきわめて残虐な敵意をむきだしにするのだが、それでもあきたりず、さらに残虐さを加重していく方法を探しているという、あきれ果てた人非人で、わたしたちが町へ入った時もたちまち六人で、わたしたちをがんじがらめに取り押さえ、のこった者で打ち、子供たちまで石を、雨あられと降らしてきた。
 この未知の生物たちは、何かにつけて、人間の逆張りを行くのだった。たとえば、木に登る時には、まずハシゴに登っておいて、そのあとから、ハシゴを木にもったせかけたし、また、町の近くに平坦地があるのに、家はすべて、傾斜の急な丘陵の中腹に建てたし、そのために居住者もおっこちそうなぐらいに、家は傾斜し、事実、子供たちは、家からいつもころがり落ちていたが、親たちは一向におかまいなしといった調子だった。(p.62)

チュツオーラはアフリカのマジック・リアリズムなどと言われたりするようである。魔術的なものが現実感を持つとは、いっけん矛盾のようであるが、この小説においては、森の魔物やそれに対する呪術が旺盛に繰り返されるので、読者はそれに現実の方を浸食されていくような感じを受ける。

さらに言えば、「人間の逆張りを行く」生物たちの町に主人公が足を踏み入れたとき、それまであった人間の現実はいったん解体されてしまうのである。やし酒飲みの旅の中で、こうした現実の解体は幾度となく繰り返される。

現実の更新ということは、すべての小説が行ってわけであるが、チュツオーラの手つきは乱暴すれすれの大胆さで、当たり前の概念の枠組みをあっというまに組み替えてしまう。まるで知恵の輪でもほどくように、初めの世界が解体され、次の世界が現れる。そのこだわりの無さがちょっと類を見ない感じだった。

一箱古本市2009

前のエントリにある通り、一箱古本市に参加してきました。つつじ祭りの人出もあり、一帯お祭りめいて賑やかな感じでした。

夕方までに40冊ほど売りました。浅野いにおの「ソラニン」をきれいな女子に買ってもらったのと、「ゼロアカ道場」を超年配の方(70代?)が買われていったのが印象深いです。

買う人がいたら面白いよなと思って入れていた、昭和二年刊、ぼろぼろの「アラスカに原始藝術を探る」は、知人のCさんが来て買っていきました。

一箱古本市に参加します

5月4日、千駄木で行われる一箱古本市に参加します。今日、部屋に積んである本から売りに出せそうなものを選んだのですが、66冊でした。これくらいで大丈夫だろうか。

本屋の棚らしく並べてみたのですが、新しめの国内の文芸書、柴田&村上訳中心の海外文学、画家の伝記、あとはまんが本、新書、文庫がちょいちょいといった感じです。売れたら驚くような変な本も数冊入れておきました。

おまけフリーペーパーも作りました。ペラ一枚で短篇小説がひとつ入ったものです。

場所は千駄木往来堂書店からやや東に入った、ギャラリーKINGYOというお店の前です。

『ジーザス・サン』の瘠せたアメリカ

短篇集 Jesus' Son に関して言えば、これはまさに完璧な作品集だ。

とまで村上春樹に言わしめた、デニス・ジョンソンの短篇集が先日刊行された。訳者は柴田元幸白水社の新しい叢書で、装幀も鮮やかなオレンジに落書き風の題字と格好いい。

題名が『ジーザス・サン』というのが、いまいち日本人に対してはイメージを喚起しにくいようで、損かもしれない。扉を開くと、ルー・リードの歌詞「ヘロイン」からの引用句がある。

めいっぱい薬やって、イエスの息子みたいな気分のとき……

実際の小説はまさしくこんな雰囲気である。麻薬の悪酔いと、ごくまれにやって来る高揚感。錯覚と思われるほど微かな宗教感覚。

ジーザス・サン (エクス・リブリス)

ジーザス・サン (エクス・リブリス)

最初の短篇はわずか十頁に過ぎない。ドラッグで頭がふらふらになった男が、ヒッチハイクである家族の車に乗せてもらうのだが、その車はやがて衝突事故を起こし、誰が死んで誰が生きているのかも分からない、そんな話である。

俺は寝袋をケープみたいに体に巻きつけた。ざあざあ降りの雨がアスファルトを引っかき、轍でゴボゴボ鳴った。いろんな思いがみじめに飛び交った。旅回りのセールスマンにもらった薬のせいで、血管の内側がこそげ取られたみたいな感じだった。あごが痛んだ。俺には雨粒一滴一滴の名前がわかった。

男はドラッグのせいで、起こることが何もかも分かるような全能感の中にいる。乗った車がやがて事故を起こすことも分かっているが、それで死のうがどうでもいいと思っている。そして実際、まるで男が正しく予見していたかのように、乗った車は橋の上で別の車と激突する。

俺の体が前後にボコボコ跳ねた。人間の血だとすぐわかった液体が車内に飛び散り、俺の頭に降ってきた。それが済むと俺はまた後部席に戻っていた。起き上がってあたりを見回した。ヘッドライトは消えていた。ラジエーターがしゅうしゅう鳴っていて、それ以外は何も聞こえなかった。どうやら意識があるのは俺だけらしかった。

ドラッグの妄想が、現実と入れ替わる。男はほとんど関わりのない、ずぶ濡れの自分を拾ってくれた家族が、事故の惨事の中にあるのを目の当たりにする。作者はドラッグに酔った語り手によって現実と非現実の境を無化しているのだが、そこに現れるのは異様に醒めた悪夢といった光景である。

訳者の柴田元幸は解説で、デニス・ジョンソンレイモンド・カーヴァーと比較している。

初めて読んだときに僕がまず感じたのも、これはカーヴァーをさらにとんがらせた感じだな、という思いだった。

カーヴァーを知っている人なら、この言葉は驚きだろうと思う。カーヴァーの短篇こそ、無駄を排した鋭い文章が持ち味なわけである。しかし読んでみると、この解説はまさにその通りという感じがする。

不況、空洞化した郊外、失業して先の希望も持っていない若者。この小説で描かれる九十年代のアメリカ社会は、日本の現在の状況と通じる感がある。そしてある点ではずっと索漠として深刻である。彼らはドラッグにふけり、わずかな金のために空き家の銅線を盗んだりする。

この時期俺が最初につきあったのは、「酒なしパーティ」で会った女だ。これは俺みたいな治りかけのアル中とか薬中毒のための社交の場で、女自身はそういう問題を抱えていなかったが、女の亭主は抱えていて、もうずっと前にどこかに姿を消してしまっていた。

カーヴァーもアルコール療養所を舞台に短篇を書いたが、デニス・ジョンソンのこの作品ではアル中は主題にすらならない。アル中やドラッグといった病的状況は、与えられたものとして物語の始めからあり、最後に至ってもはっきり解決が与えられることがない。

いまデニス・ジョンソンと比べると、カーヴァーが健康に見えるほどである。デニス・ジョンソンの小説には、あの豊かで明るいアメリカはどこにも見当たらない。瘠せて骨と皮ばかりのアメリカだが、それがまた非常にリアルでもある。